しおりりばーしぶる(♦A)
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♦A
――それは現在進行形の、そして知られざる物語。
少女の秘めた想いは決して表の物語で語られることはなく、
ただそれを知る"ふたり"の間で密かに紡がれる…。
「くしゅんっ」
もう何度目か分からないくしゃみ。
私はノロノロと枕元のティッシュ箱に手を伸ばした。
朝に開けたばかりのティッシュ箱も、ずいぶん軽くなってしまった。
今日はあったかくして寝てなさいと言われて、昨日の夜からずっとベッドの上の住人だったけれど、
風邪の引き始めのせいか前より具合は悪くなっている気がする。
寒気もまだ収まらない。パジャマの下も寝汗でぐっしょりだった。
鼻をかんで丸めたティッシュを、ベッドの脇に寄せたゴミ箱に放り込む。
狙いが外れたティッシュがゴミ箱の周りに白い花を咲かせていたけど、体を起こすのもおっくうで散らかしたままだった。
「はー」
だるい。鼻の下がヒリヒリする。人知れずため息が漏れる。
あーあ。なんであんなことしちゃったんだろ…。
私は昨日の自分の行いを心底悔いていた。
ひょっとしたら真由美ちゃんが心配してくれるかな……なんて淡い期待をしたのがそもそもの間違い。
そうだよ。おがちんが特別なんだよ。おがちんは普通じゃない。
私みたいなごくごくフツーの子は、冬にノーパンで過ごすなんて無理だったんだ。
結局、私が自分で気にするばっかりで真由美ちゃんには気付いてもらえなかったばかりか、
冬の冷たく乾いた風に体もすっかり冷え切ってしまった。
風邪を引いて寝込むハメになったのも自業自得よね…。
……そうだ。おがちんと真由美ちゃん。
ふたりは今日どうしてるのかな。
自分がいないしょうがない隊がどんなふうに活動しているのか、想像できない。
あのふたりなら抜け駆けなんてしないって分かってるけど、なんだか気持ちがざわついてしまう。
これも佐藤くん成分を補充できないせいかしら…。
そうしてあれこれ取り留めもなく考えているうちに、まぶたが重たくなってきた。
さっき飲み直した薬が効いてきたのかな。
だんだんと思考がぼやけて、夢との境目がなくなっていく。
もう一度……寝……
………
……
ぴんぽーん。
遠くで鳴ったチャイムの音が、私をふわふわとした夢の世界から引き戻した。
少しずつクリアになっていく意識。
……誰か来たのかな。
横目で時計を見ると……3時半過ぎ。4時間くらい眠っていたみたい。
でもまだ眠気が残っていた私は、しばらくトロトロとまどろんでいた。
――と、
コンコン。
ドアをノックする音。
ママ?
「詩織ちゃん、私。起きてる?」
「えっ!?」
ま、真由美ちゃん!?
その声を聞いて私の意識はいっぺんに飛び起き、あたふたとしながら頭も回り始めた。
「あっ、ちょ、ちょっと待って!」
ま、まずゴミを捨てなきゃ。
それから一応パジャマの乱れも直して…。
あとは……髪もクシャクシャだよー! しょうがないから指でサッとクシを通して……
ま、まあ……これでなんとか体裁は整ったかな?
「あ、いいよー」
「おじゃましまーす」
ドアの隙間からおずおずと顔を覗かせた真由美ちゃんが、部屋に入ってくる。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。でも真由美ちゃんだって思わなくて……ちょっと慌てちゃった」
私は苦笑いしながら、そう正直に打ち明けた。
「すごいティッシュだね……風邪?」
ゴミ箱に山盛りのティッシュを見て、真由美ちゃんが尋ねてきた。
「あ、うん、昨日帰ってからくしゃみが止まらなくて……私の鼻、赤くなってない?」
「うーん……かも」
私の顔をマジマジと見つめて、おかしそうに微笑む真由美ちゃん。
「ああ、もう。ホントに〜?」
と言ってる矢先に鼻がむずむずしてきて、また1枚ティッシュが白い山の一部になった。
「詩織ちゃん、辛そうだね」
「うん……ずっと寝てたんだけど、まだあんまり良くなってないみたい」
「そっかぁ……じゃあしばらく学校もお休みかな?」
「かな。私も早く治して学校に行きたいんだけどね」
早くしないと佐藤くん成分が切れちゃうし、とも付け加えた。
「あ、そうだ。今日配られたプリント持ってきたよ。えーと、ここに置いとくね」
「うん、ありがと」
「今日はおがちんも元気なかったよ。詩織がいないと張り合いがないわね、って」
「そっか……」
それを聞いた私はなぜか少しきまりが悪くなって、うつむいた。
「……あれ?」
見ると、真由美ちゃんが私の机の上を見つめながら、不思議そうな表情を浮かべていた。
その視線の先にあるのは……。
え…? あっ!
しまったー!!
私は自分が犯した決定的なミスに気が付いて、青ざめた。
出しっぱなしだった! 写真立て……。
急に誰かが部屋に来るなんて思わなかったから…。
「詩織ちゃん、これ……」
真由美ちゃんが手に取る。
やめて。やめて。
何も言わないで、真由美ちゃん。
「この前はなかったよね?」
「そ、そうだった?」
やだ。声が上擦っちゃった。
誰が聞いても、ごまかそうとしたのはバレバレだった。
「……」
私は居たたまれなくなって、もそもそと布団の中に顔を埋めた。
布団から目だけ向けて確認すると、真由美ちゃんはその場に立ち尽くして、手にした写真立てを真顔で見つめていた。
やだやだ。真由美ちゃん、何を考えてるの?
違うんだから。真由美ちゃん、違うんだからね。
その写真は別に変な意味じゃなくて。
風邪の熱とは別に、自分でも顔がどんどん熱くなっていくのが分かる。
「詩織ちゃん」
「は、はいっ!?」
「どうしてこの写真なの? 確か詩織ちゃんが真ん中の写真もあったよね?」
「ぅ……」
返答に詰まる。
なんて答えればいいの?
説得力のある答えなんて、何にも思い浮かばない。
それに自分を偽って咄嗟に嘘をつけるほど、今の私は冷静じゃない。
「詩織ちゃん…?」
「な、なんとなく……」
「え?」
「ぅぅ……」
追い詰められた私は寝返りをうって、真由美ちゃんの方から背を向けた。
どうしよう。
どうしよう。
心は針路も見えない嵐のただ中。私は完全にパニックに陥っていた。
それからどれくらい経ったのかな。
コトンと何かを置く音が耳に入った。
そしてじゅうたんを踏む静かな足音。背中越しでも真由美ちゃんの気配が近づいてくるのが分かる。
足音が止まり、ギシッとベッドの片側に重みがかかる。
ベッドに腰掛けた真由美ちゃんがすぐ側にいる。
真由美ちゃんの息づかいを感じる。
混乱と緊張で私は何も言えない。代わりにゴクリと息を飲んだ。
「ね、詩織ちゃん、こっち向いて」
「んー……」
もぞもぞして、ごねてみせる。
「何にもしないよ、熱、はかるだけ」
「う、うん……」
真由美ちゃんに促されて、私はしぶしぶ仰向けになった。
だだっ子になった私を見守るような、真由美ちゃんの穏やかな眼差し。
でも私はなんだか気まずくて、とても目を合わせられそうにない。
スッと真由美ちゃんの手が伸びてくる。
それにビクンと反応して、思わず目を閉じてしまう私。
そんな私のおどおどした様子を見た真由美ちゃんは、ふふっと軽く笑いをこぼした。
汗で張り付いた私の前髪を優しい手つきで払い、そして手のひらが私の額に重なる。
ほんの少しひんやりした手のひら。
少しずつ私の体温が伝わり、ふたりの温度がひとつに混じっていく。
私はずっと目を閉じて、されるがままにそれを受け止めていた。
真由美ちゃんの顔を見るのも、何か言葉を口にするのも怖かったから…。
「うーん……」
「……」
「まだ、熱いね」
「うん……」
「私の平熱が36.5度くらいだから……まだ37度以上ありそうだね」
「うん……」
手のひらが離れる。汗のにじんだ額が空気に触れて、すうっとする感じがした。
「ごめんね、汗かいちゃった?」
「うん……ちょっと」
そう答えると、真由美ちゃんは枕元にあった汗ふき用のタオルで額をぬぐってくれた。
そしてそれきり――真由美ちゃんは口をつぐんだ。
長い沈黙。時計の針だけが進んでいく。
真由美ちゃんの意図が分からず私は最初戸惑っていたけど、時間の流れに身を任せるようにしていたら、
さっきまで吹きすさんでいた心の中の嵐もだんだん落ち着いてきた。
目を閉じて耳を澄ましていたせいか、世界がふたりの息の音だけで満たされているような気がした。
そうして嵐も止んで、凪になり始めた頃。真由美ちゃんがようやく口を開いた。
「ねえ、詩織ちゃん。聞いていい?」
途端にドクンと波打つ私の心臓。冷たい汗がこめかみのあたりを伝う。
それから私の返事を待たずに、真由美ちゃんは言葉を続けた。
「どうしてこの前――」
ごくり。
私は無言で、次に来る言葉を待ち構えた。
この前って……やっぱりあの……プリクラのこと?
判決を聞く直前の被告人のような気持ちで、私は内心覚悟を決めていた。
けれど真由美ちゃんは気が変わったのか、
「あ、ううん……なんでもない」
そう言って、話をはぐらかしてしまった。
「……」
「……」
ほんの少しの沈黙のあと、私は意を決して逆に真由美ちゃんに聞き返した。
宙ぶらりんにされてしまった私の覚悟が、それを言わせたのかもしれない。
「……真由美ちゃん、ホントは怒ってるよね」
「怒るって、なにを?」
「そんなの……」
いっぱいあるじゃない。
真由美ちゃんをそそのかしたり。
抜け駆けみたいなこともしたり。
おがちんにもすごく酷いことした。
ふたりに謝らなくちゃいけないことは、たくさんある。
だから、だから…。
"ごめんなさい"
ちゃんとそう言わなきゃ…。
そう分かってるのに、言わなきゃいけないのに。
なのに喉まで出かかったそのひと言は、乱れ始めた呼吸のせいで足場を失ったみたいに
どうしても声にはなってくれなかった。
……怖い。
閉じたまぶたの向こうにいるはずの真由美ちゃんの顔が怖くて見られない。
どうしてこんなにも怖いの?
ただひと言謝るだけなのに。
でも真由美ちゃんの前でそうしてしまったら、私の想いまでも否定してしまうような気がして、
まるで今までの自分の全部が壊れてしまいそうな気がして、だから怖い…。
きっとそのときの私は、思い詰めたような顔をしていたんだと思う。
不安で、怖くて、ともすれば泣き出してしまいそうな、そんな顔を……。
「大丈夫だよ、詩織ちゃん」
そのときだった。
耳に入ってきたのは、揺れる私の心を包み込むような、とびきり、優しい声。
「だって私は」
「詩織ちゃんのこと大好きだもん」
……っ。
唇が震える。目の端からこぼれた雫が、枕カバーの上に小さな染みを作った。
ひと粒、ふた粒……それからあとはもう止まらなかった。
真由美ちゃんがそれに気付いていないはずはなかったんだけど……
何も言わずに、ただそばで待っていてくれた。
そして言葉にする代わりに、私の髪の手触りを慈しむように、優しく頭を撫でてくれた。
……不思議だね、真由美ちゃん。
こうして撫でられていると、真由美ちゃんの優しさが私にも伝わってくるみたい。
しばらくして涙が収まるのを待って、私はおそるおそる目を開いた。
子供をあやすような真由美ちゃんの柔らかい眼差しが、私を見つめている。
まだ少し目も潤んだままの泣き顔を見られるのはちょっぴり恥ずかしかったけど、
今度は私もちゃんと見つめ返すことができた。
すんと鼻をすすって、私はようやくあの言葉を口にした。
さっきは言えなかった、あの言葉。
「ごめんなさい、真由美ちゃん」
もう怖くない。
だって、聞けたから。
その言葉だけ聞ければ、私はもう、十分だから。
私は身体を横向きに起こすと、布団の中から手を伸ばして、真由美ちゃんの手を取った。
その温もりを愛おしむように、大事に、大事に両手で包み込む。
あの遠い冬の日、私を頼ってすがるように握りしめてきた小さな手のひら。
大きくなった今も、こうして私の手を握り返してくれてる。
でもあのときとは逆で、甘えて、すがっているのは私の方。
「真由美ちゃんは、強くなったね」
「……?」
そう。真由美ちゃんは強くなった。
もうおがちんに頼り切っていた、あの頃の弱々しい真由美ちゃんじゃない。
「私が? どうして?」
「……どうしても」
:
:
「お大事に、詩織ちゃん。早く良くなってね」
「うん……今日はありがとう」
ぱたんと扉が静かに閉まり、私はまたひとりになった。
仰向けのまま、ボーッと天井を眺める。
まだ頬が火照ってる。
改めて思い出すと、とても恥ずかしいことをしてしまったような気もするけど、
自分の気持ちに素直に従った結果だもん。しょうがないよね。
真由美ちゃん。
ありがとう。
大好きだよ。
それとね、ひとつだけお願いがあるの。
今日のことは、私たちふたりだけのヒミツ。……約束だよ?
了
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