しおりりばーしぶる(♠5)
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――朝の教室は静かだ。
先生の声に混じって、チョークがコツコツと黒板を叩く音が響く。
遠くからは、はしゃぐような歓声が聞こえてくる。
先週から始まったプールの授業の最中なんだろう。
季節は春の装いをすっかり脱ぎ捨て、初夏が顔を覗かせ始める頃。
窓際を照らす朝の光にも少しずつ肌を刺すような熱が混じり始めて、今日も蒸し暑い1日になることを予感させた。
そしてクラスメイトたちが黙々とノートを取っている中、私は心半分にあることに思いを巡らせていた。
それは今朝、朝の会が始まる前の出来事……。
「この布っきれ〜〜〜」
「机のせいだよ!」
パンツ相手におがちんが吠える。それを懸命になだめる真由美ちゃん。
あーあ。また始まった。
こうなると私は完全に蚊帳の外。
自分にしか聞こえないように小さくため息をつくと、私は無関心を装ってふたりに背を向けた。
気を紛らわせようと机から占いの本を引っ張り出して、ページに目を落とす。
でも本の内容なんか、ちっとも頭に入ってこなかった。
意味のない、ただの文字の羅列。
それを虚しく目でたどりながら、私はここ最近の自分の空回り具合を思ってますます落ち込んでいた。
……そう、昨日だって。
「私は佐藤くんにだけ夢中で気にしたことなかったな」
言ってしまったあとで、チクリと後悔が走る。
ちょっと嫌味っぽく聞こえちゃったかな…?
私はおがちんなんてどうでもいいって言ってるみたいで。
おがちんばっかり気にしてる真由美ちゃんはおかしいよって。
それはだけど、半分本音で……でも言わなくてもいいことで。
でも、だって、真由美ちゃんは私なんかそっちのけでおがちんのことしか考えてなくて……
それどころか私のことを警戒したりするんだからいけないんだよ。
でもやっぱり、余計なことを言っちゃったのかも…。
ところが私のそんな葛藤を知ってか知らずか、真由美ちゃんと来たら、
「おがちんも佐藤くんも大事だもん」
な〜んて模範解答で、私のささやかな当てつけをあしらってくれたんだ。あっさりと。
その優等生の真由美ちゃんは、私の右斜め前の席でスラリとした背中を気持ち窮屈そうに丸めていた。
黒板と教科書をしきりに見比べては、思い出したようにノートにシャープペンを走らせている。
真面目だなあ。さっきからノートが真っ白なままの私とは大違い。
今教わってる範囲はもう塾でも習ったところだし、今さら真面目にやらなくても大丈夫なんだけどね。
どうにも気が乗らなかった私は、定規セットから引っ張り出した三角定規の穴に指を入れて
くるくる回したりしながら、いたずらに時を過ごしていた。
回る三角形。中心からそれぞれの距離を保って円を描く三つの頂点。
まるで佐藤くんを中心におのおのの想いと思惑を巡らせている私たち、しょうがない隊みたい。
そこまで考えたところで、私は気ままに遊ばせていた手を止めた。
……思えば正三角形に近かった私たちの関係も、ずいぶん変わってしまった。
今の私たちは……こっちね。
もうひとつの三角定規を手に取る。
3つの角が30・60・90度になってる、細長い方の三角定規。
このてっぺんの角がおがちん。こっちの直角が真由美ちゃん。
そしてひとつだけ離れたこの細い角が、私――
「伊藤さん」
「はっ、はい!?」
取り留めもない思考の波面で漂っていた私は、突然降ってきた自分の名前を呼ぶ声に
隠しようもないほどに裏返った声で応えた。
不審げな、そして好奇半分の視線がいくつか私に向けられている。
私は先生に当てられたんだと気付いて、慌てて椅子を蹴るように立ち上がった。
もう。定規なんかで遊んでる場合じゃないよ。
ぱちくりとまばたきして、黒板を見つめる。大きさの違う四角形がふたつ――
「じゃあ、こっちの四角形の面積はいくつかな?」
「えっ……えっと」
言葉に詰まる。
考え始めた矢先に問い掛けられて、私の思考はハンドル操作のままならない車のように
左へ右へと大きくふらつきだした。
えっと下の辺が4センチで、こっちの角度が80度で、こっちの辺は12センチで……?
だから、えっと、えっと……。
断片的な情報が頭を駆け巡るばかりで、ちっとも考えがまとまらない。
分かってる、だいじょうぶ。こんなの全然難しい問題じゃない。
でも、あれ……。
いくら心を落ち着けようとしても、四方八方に散らばってしまった思考のかけらは
私からすっかり冷静さを奪い去っていった。
教室の中を満たしていく小さなざわめきが、チリチリと私の心の表面を焦がすように感じられた。
斜め前の席の真由美ちゃんが振り返って、心配そうに私の顔を見上げてる。
……やめてよ。
そんな目で見ないで。
なおさら自分が惨めになっちゃうじゃない。
真由美ちゃんが口をしきりに動かして答えを伝えようとしていることにも気付かず、
何も考えられなくなった私は放心状態でその場に立ち尽くしていた。
「伊藤さん?」
「あ……」
先生の呼びかけで我に返る。私はこの場から逃れるための言葉をどうにか絞り出した。
「わ……分かりません」
「そう? 伊藤さんなら分かるはずだから、落ち着いて考えてみてね」
「は、はい……」
ようやく晒し者から解放された私は、糸が切れたように椅子に腰を落とした。
教科書を開き、震える手でシャープペンを握る。
こんなときでも体裁とか見てくればっかり気にしてる。ホントどうしようもない私…。
「じゃあ……みつばちゃん」
「げっ!?」
「げっ、じゃないよ。ほら、立って答えて」
「うっさいわね〜はいはい、立てばいいんでしょ立てば!」
悪態をつくクラスメイトに和んだ教室の窓際で、私ひとりが時間の流れに取り残されているように思えた。
そのときの私には屈辱だとか、恥ずかしいだとかいう気持ちも、本当に何にもなかった。
まるで心がみんなどこかに飛んでいってしまったみたいに。
「詩織、らしくないじゃない。どうしたの?」
次の休み時間。心配の2文字をいっぱいに貼り付けたふたつの顔が私を囲んでいた。
「う、ううん。ちょっとボンヤリしてたみたい。急に当てられてびっくりしちゃった」
「詩織ちゃん、さっき顔が真っ青だったよ……保健室で休んだ方がいいんじゃない?」
「もう〜そんなことないって。真由美ちゃん気のせいだよ」
「えっ、でも……」
「ふたりともありがと。でもホントに何でもないからね」
これ以上ふたりに優しくされたら、ずっと自分を守るために着けてきた仮面が剥がれ落ちてしまいそう。
お利口さんで、何でもそつなくこなす、"伊藤詩織"という仮面が。
既に苦笑いでごまかすのが精いっぱいになっていた私は、なんとかその場をやりすごそうと
出しっぱなしだった算数の教科書やノートをそそくさとしまい始めた。
それを黙って見てるふたり。見守るような視線がどうにも居心地悪い。
「……あれ?」
定規セットを片付けようとしたところで、私は手を止めた。
もう入れたっけと思ってビニールの袋を開けて確認してみたけれど、やっぱり……ない。
「なにかないの?」
「うん……三角定規が」
さっき先生に指されたときに落としたのかな?
そういえば手に持ったまま立ったような気も…。
「下に落ちてる?」
3人で机の下や周辺を見回してみたけれど、見当たらない。
「う〜ん、ないね〜」
「教科書にはさまってるんじゃないの?」
「かな?」
そのとき。不意にパキッと乾いた音が耳に入った。
おがちんが怪訝そうな顔をしている。きょとんと顔を見合わせる私と真由美ちゃん。
「わわっ!?」
慌ててその場を飛び退くおがちん。
その上履きの下から現れたものを見て、私たちはさっきの音が意味するものを理解した。
拾い上げて確認するまでもなく、三角定規はとがった角の先の部分がきれいに折れて、
四角定規になってしまっていた。
「ごっ! ごめんなさい!」
途端にあわあわと涙目で慌てふためき始めるおがちん。
「弁償するから! ぜったいに弁償するから!」
「いいよいいよ」
おおげさなくらい取り乱すおがちんをなだめるように、私は笑って言った。
「落とした私が悪いんだから、おがちんのせいじゃないよ」
「でもっ、私が気をつけていれば――」
「ううん」
私はかぶりを振って、おがちんの言葉を遮った。
そしてひと呼吸置いて、言った。
ちょっと気を抜いたら上擦りそうになる声を必死に飲み込んで。
「その定規、元々ひびが入って壊れそうだったんだ」
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私の部屋の机には写真立てがひとつ飾ってある。
その写真に向かっておやすみの挨拶をしてから眠りに就くのが、私の習慣になっていた。
……佐藤くん。
今日は恥ずかしいところを見せちゃったね。
でも、これからはだいじょうぶ。
きっともう迷ったりすることもないから。
だって私は、佐藤くん一筋なんだもん。
じゃあ、おやすみなさい、佐藤くん……。
部屋の灯りが落ちる。
今日はよく眠れそう。目を閉じると、仰向けのまま闇の中に落ちていくような感覚と共に
意識はすぐ眠りの世界に溶け込んでいった。
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