しおりりばーしぶる(♠4)
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――私の名前は伊藤詩織。
なんでも「しおり」という名前にすることは最初から決まっていて、
「詩織」にするか「栞」にするかで両親は迷っていたそうだ。
どうして、詩織にしたの?
そう尋ねたら、こんな答えが返ってきた。
"自分の想いを詩に乗せて織る人。素敵だと思わない?"
それを聞いたとき、ロマンチストすぎでしょと思わず笑ってしまったけど、
私に似つかわしい名前だとも思う。
詩(うた)を織る者――それが詩織。
私の織りなす恋の詩は、いつか愛しいあの人の元に届くのだろうか。
ときどき不安になる。
ギュッと胸が締め付けられる。考えたくないけど……もしかしたら。
そんなふうに心が揺れたとき、私は決まって長風呂することにしている。
そうしてのぼせるくらいずっと湯船に身を浸して、心の中から悪い気持ちを全部洗い流すんだ。
不安も。迷いも。みんな消えてなくなるまで……。
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……これで証拠隠滅っと。
「証拠」が水流に飲まれ、トイレに吸い込まれていったのを見送って、私はようやくホッとひと息ついた。
おがちんには悪いけど、別にいいよね。
どーせバラバラに切り刻んだ消しゴムなんて使い物にならないわけだし…。
それから洗面台で手を洗って髪を軽くセットし直していると、ふと鏡の中の自分と目が合った。
茶色味がかった大きな瞳が、パタパタとまばたきしながら見つめてくる。
私。伊藤詩織。
このコは、他の人の目にはどんなふうに映っているのかな?
まあ、ルックスはけっこういい線いってるよね。クラスのどの子にだって負けてないと思う。
うん、女の子だもん、それくらいの自信は持たなきゃ。
けど、ときどき自分で自分が怖くなることもある。
ドラマに出てくる子役じゃないけど、小さい頃から割とませていて物わかりがよかった私は、
自然と器用に立ち回る、大人受けのいい子供を演じるようになっていった。
自分が損しないように。そして出来る限り、自分だけが得するように。
考えるより先にそんな小ずるい計算を働かせて、したたかに振る舞う。
そういうときの自分がどんな顔をしているのか……それを知るのがちょっと怖い気もするんだ。
そういえば、テレビで聞いたことある。良心がなくて、平気で悪いことを出来ちゃう人。
サイコパス……だったかな。確か、そんな感じの。
でも私はそんなんじゃないよ。あとになって、悪いことしたかなって後悔することもあるし…。
後悔と言えば。さっきの休み時間のことを思い出す。
予想外だったよ。全然予想外。まさかおがちんがあんなにも鋭いなんて思わなかった。
おかげでクラスのみんなにも責められるし……久しぶりにイヤな汗をかいちゃった。
とっさの思い付きだったにしても、あの時はいいアイデアだと思ったんだけどなぁ。
詰めが甘かったみたい。やっぱりちょっと焦ってたのかな、私。
あーあ、イヤだなあ……なんとなく地に足が付いてない、この感じ。
それもこれも真由美ちゃんと――
「あっ」「あっ」
鏡越しに交わされた視線にお互い気が付いて、声がぴったりハモってしまった。
振り返った私に、なぜか気まずそうに目を逸らす真由美ちゃん。
あんなことがあったばっかりだし、私とは一緒に来たくなかった……のかな。
私は俯いてしおらしい態度を作ると(実際ちょっと落ち込んでいたんだけど)おずおずと切り出した。
「あ、あの……さっきはゴメンね。佐藤くんの消しゴムを見て、その、つい魔が差しちゃって……」
「ううん、謝らないで、詩織ちゃん。私もおがちんももう何とも思ってないもん」
「ホントに…? 怒ってない?」
「ホントホント、だいじょうぶだって。そんな心配症な詩織ちゃんなんて、詩織ちゃんらしくないよ」
そう笑って言いながらも、真由美ちゃんの表情はどこか堅いままだった。
そのぎこちない微笑みに、真由美ちゃんの本心が透けて見えるような気がした。
……真由美ちゃん、相変わらず心を装うのが下手なんだから。
別にお手本を見せようっていうわけじゃないけど、私は内心の動揺を悟られないように
出来るだけ明るく声のトーンを上げて、にこやかに微笑み返した。
「そっか、それもそうだよね。ありがと、真由美ちゃん」
「うん」
トイレでいつまでも立ち話していても仕方ない。
話を切り上げて、真由美ちゃんの横を通り過ぎようとした、そのすれ違いざま。
真由美ちゃんの目が素早く動いてこちらに向けられたのを察知して、私は一瞬体をこわばらせた。
その視線のたどる先は……私の腰のあたり。
まさか。
まさか、ね。
ドクンとひときわ強い鼓動が胸を叩く。真由美ちゃんの耳にも届きそうなくらい、大きな音で。
私は振り返るのも怖くなり、高まる鼓動を連れてその場から逃げるように足早に教室に戻った。
真由美ちゃんが戻ってくる前に落ち着かせなくちゃ。
そう思えば思うほど心は逸ってしまい、せわしない心臓の高鳴りはなかなか収まってくれなかった。
――それからだったのかな。
私がまた真由美ちゃんからの視線を感じるようになったのは。
以前とはまったく違うその視線の意味、私がそれを理解するにはもう少しの時間が必要で……
佐藤くんたちがマスクとティッシュを手放せない季節を待たなくてはならなかった。
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お風呂上がり。私はのぼせきった上半身を、学習机の上にぐったりと横たえていた。
パジャマのボタンも全開にして、火照った身体を冷ます。
脈拍が上がったせいでズキズキと痛む頭を横にしながら、しばらくボンヤリと枝毛なんかをいじっていた。
コチコチという秒針の音に混じって、自分の荒い呼吸の音が聞こえる。
はあ。はあ。はあ。そこに苦笑い混じりの軽いため息が加わった。
はーあ。
こんなだらしないとこ、とても人には見せられないなぁ。間違いなく幻滅されちゃうよね。
特に佐藤くんに見られたら……人生おしまい。
不意に写真立ての向こうの佐藤くんから見つめられているような気がして、
私はあたふたと居ずまいを正した。パジャマもきちんと着なくちゃ。
『女のコはいつでも見られてる、その意識が大事』
いつだったか雑誌に載ってたそんな話題で、真由美ちゃんと盛り上がったこともあったっけ。
その真由美ちゃんはと言えば、例によって写真立ての中で困ったような微笑みを浮かべている。
……ひどいよ、真由美ちゃん。私の気も知らないで。
薄いガラス越しに真由美ちゃんのほおの輪郭をなぞりながらつぶやく。
真由美ちゃんのあの言葉のせいで、私、すごく傷ついたんだからね。
だって、あれだけはっきり言われちゃったんだもん。
もうどうしたって認めないわけにはいかないじゃない。
「元はあんな子じゃないんだけど……」
必死に冷静を装ってみんなに言ったその言葉は、精いっぱいのフォローのつもりだったけれど、
同時に私の敗北宣言でもあった。……なんてね。
知らずにいたら。うやむやなままにしておけたら。
そしたら不安だけど、まだかすかな希望を持ったままでいられたのかもしれない。
知ってしまったら、きっともう後戻りは出来ない。
だから怖いけど……でも確かめずにはいられない。
あの時の私の言葉にそんな想いが込められていたのだと言ったら……真由美ちゃんは信じてくれるかな?
「2等分しない…?」
佐藤くんのマスクを見つけたとき、私はすぐさまひとつのプランを思い描いた。
3等分じゃない。
2等分。それが大事。
3等分しようって持ちかければ、もしかしたら真由美ちゃんも受け入れていたのかもしれない。
でもそれじゃ意味がないんだ。
独り占めしようという頭は、最初からなかった。いつもの私ならどうだったか分からないけど。
「だって……佐藤くんを思う気持ちはみんな一緒でしょ?」
「おがちんは隊長とはいえ対等なライバルなわけだし……」
「ライバルのためにこんなチャンスを逃すのもおかしな話だと思わない?」
こんな浮ついた言葉、いくら重ねたところで、友だち想いの真由美ちゃんの心に
届くはずがない。耳を貸すはずなんかない。
それくらい私だってわかってるけど……でも私にはこうするしかないんだ。
「真由美ちゃんも佐藤くんが好きでしょ? ねっ?」
「……」
ほんの一瞬、真由美ちゃんと真っ直ぐ視線を交わし合う。
……こんなふうに真由美ちゃんの目をちゃんと見つめるの、ずいぶん久しぶりだなぁ。
心の端にそんな考えが浮かび上がって間もなく、私のかすかな期待への答えは示された。
交錯するふたりの視線の先、真由美ちゃんの震える瞳の中に浮かんでいたのは……怯えと警戒心。
それが真由美ちゃんの答えだった。その先の言葉はもう聞く必要もなかった。
だって、それは私にとって「とどめ」以外の何物でもなかったのだから。
――私は後悔してないよ。
ただちゃんと確かめたかっただけなんだ。
私とおがちん……真由美ちゃんの心の天秤は、今どちらに傾いているのかって。
ふふっ……でもそんなの、確かめるまでもなかったね。
でもね、真由美ちゃん。本当はあのとき、私は怒ってほしかったんだよ。
「友だちなら、そんなこと言わないで!」
「詩織ちゃんのこと、見損なったよ!」
例えば、そんなふうに。
そうしたら、これまでと同じ……ううん、もしかしたらそれ以上の私たちでいられたんじゃないかなって思うの。
でもこんなこと言ったら、真由美ちゃんはズルいって思うよね。
誘惑して。そそのかして。試すようなことして。
そんなんだから、真由美ちゃんに「詩織ちゃんも好きだもん」って言ってもらえないんだよね。
わかってる。これは、ただの八つ当たり。
心を黒い箱に閉じ込めて誰にも見せようとしないくせに、ちゃんと見てもらえないとすねる。
そんなふうにひねくれちゃった子の、ただのわがままなんだ。
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